Masuk大会がすべて終わる頃には、空の色が少し変わり始めていた。
まだ夕方と呼ぶには明るいが、昼間の刺さるような日差しは少し弱くなっている。競技場を出る選手や観客が駅へ向かって歩き始め、入口付近にはスポーツバッグを持った学生たちの列ができていた。
陽菜は陸上部の仲間へ挨拶を済ませたあと、俺のところへ戻ってきた。
「待った?」
「そんなに」
「嘘。二十分くらいかかったでしょ」
「本読んでたから」
「競技場まで来て本持ってきてるの、悠真らしいね」
「待つ時間あると思った」
「正解だった」
陽菜は少し笑い、そのまま俺の隣へ並んだ。
さっきまでよりは表情が柔らかい。ただ、完全に明るくなったわけでもなかった。自己ベストを出した嬉しさと、目標へ届かなかった悔しさの両方を持っ
第89話 嬉しいと悔しいは、同じ日にあっていい 大会がすべて終わる頃には、空の色が少し変わり始めていた。 まだ夕方と呼ぶには明るいが、昼間の刺さるような日差しは少し弱くなっている。競技場を出る選手や観客が駅へ向かって歩き始め、入口付近にはスポーツバッグを持った学生たちの列ができていた。 陽菜は陸上部の仲間へ挨拶を済ませたあと、俺のところへ戻ってきた。「待った?」「そんなに」「嘘。二十分くらいかかったでしょ」「本読んでたから」「競技場まで来て本持ってきてるの、悠真らしいね」「待つ時間あると思った」「正解だった」 陽菜は少し笑い、そのまま俺の隣へ並んだ。 さっきまでよりは表情が柔らかい。ただ、完全に明るくなったわけでもなかった。自己ベストを出した嬉しさと、目標へ届かなかった悔しさの両方を持って帰ると言ったばかりだ。 それなら、どちらか一つの顔にならないのも当然なのだと思う。「駅まで歩ける?」「歩けるよ。脚は疲れてるけど、痛くない」「荷物持つ?」「大きいほうお願いしていい?」「いいよ」 スポーツバッグを受け取ると、思ったより重かった。「何入ってるの」「スパイク、着替え、飲み物、タオル、あと細かいやつ」「大会一日でこんなになる?」「陸上部は荷物多いの」「走るだけなのに」「今、全国の陸上部員を敵にしたよ」「言い方悪かった」「かなり」 そんなくだらない会話をしながら歩く。 大会直後にしては普通だった。 でも、競技場が少し遠くなった頃、陽菜が急に黙った。
第88話 自己ベスト。それでも彼女は、最初に笑わなかった 自己ベストを更新したのに、陽菜はすぐには笑わなかった。 レースを終えてからしばらく、俺たちは競技場の外側にある日陰を並んで歩いていた。陽菜は「ちょっとだけ待って」と言ったあと、スポーツドリンクを少しずつ飲みながら、ほとんど何も話さなかった。俺も無理に言葉を足さない。結果が出た直後くらい、本人の中で感情が追いつくまで待ってもいいと思ったからだ。 それでも、沈黙の中で考えてしまう。 自己ベスト。 前より速い。 数字だけ見れば、間違いなく前進だ。 でも、陽菜が狙っていたタイムにはほんの少し届かなかった。 だから「おめでとう」と言えば、目標未達を軽く扱っているような気がする。「惜しかった」と言えば、自己ベストを喜べないような言い方になる。「すごかった」と言えば、また結果を外側から勝手に良いものへ変えてしまうかもしれない。 前の大会で、それはかなり学んだ。 俺がどれだけ良い結果だと思っても、陽菜が悔しいなら悔しい。 今回は、そこに嬉しさまで混ざっている。「悠真」 しばらく歩いたところで、陽菜がようやく口を開いた。「何」「さっき、分からないって言ったじゃん」「嬉しいか悔しいか?」「うん」「今は分かった?」 陽菜はすぐには答えず、近くにあったベンチへ座った。俺も少し間を空けて隣へ座る。「……まだ、半分くらい」「半分?」「自己ベストは嬉しい」「うん」「ちゃんと嬉しいの。それは嘘じゃない」「うん」「でも、目標の数字見た瞬間に、そっちも同時に見えた」
第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。
第86話 今回は、彼女から先に「好きって言って」と言われた 大会当日、競技場の入口近くで陽菜を見つけた時、俺は最初に「おはよう」と言うつもりだった。 昨日、二人でそういう話をしたからというより、それが一番普通だったからだ。大会だからといって特別な言葉を用意しておく必要はない。むしろ、前回みたいに余計なことを考えすぎるより、その時の陽菜を見て話せばいい。 そう思っていたのに、俺が口を開くより先に、陽菜はスポーツバッグを肩へ掛けたままこっちへ来て、少しだけ困った顔で言った。「悠真、今日だけは先に好きって言って」 かなり意外だった。「今?」「今」「前回、レース前は嫌だって言ってたけど」 そこまで言ってから、言い方を間違えた気がした。 陽菜も少しだけ眉を上げる。「それ、今言う?」「比較したかったわけじゃない」「でもした」「ごめん」 陽菜は一度息を吐いてから、肩に掛けていたバッグを持ち直した。「まあ、私も前と逆だなって思ってるからいいけど」「じゃあ、本当に今?」「うん。今は欲しい」 なら、迷う理由はない。「好きだよ、陽菜」 言うと、陽菜の顔が少しだけ緩んだ。「もう一回」「何で」「一回で終わると思わなかった」「注文多いな」「今日だけ」「好きだよ」 今度は少しゆっくり言った。 陽菜は数秒こっちを見たあと、「うん」と頷いた。その返事が昨日より落ち着いていたので、俺のほうも少し安心する。「これでいい?」「かなり」「
第85話 大会前日に、彼女が珍しく「怖い」と言った 大会前日の陽菜は、思っていたより普通だった。 午前中に軽い調整をしたあと、昼過ぎに大学近くの喫茶店で会った時も、特別ぴりついている様子はなかった。髪はいつものように結ばれていて、注文したのもいつものアイスティーだったし、俺が頼んだプリンを見て「一口ちょうだい」と言うところまで普段通りだった。「自分で頼めばよかっただろ」「一個はいらないの。一口がいい」「その理屈、毎回ずるい」「彼氏のプリンは一口だけ食べると一番おいしい」「そんな効果ない」「あるよ。自分のお金で買ってないから」「最悪の理由」 結局一口やると、陽菜は満足そうに笑った。 この顔だけ見ていれば、明日大会だとは思えない。 俺のほうが意識しているくらいだった。脚の張りはどうか、体調はどうか、睡眠は取れているか。聞きたいことはいくつもある。 でも、ここ数日の話を考えると、全部確認するのも違う気がした。「脚」 それでも一つだけ聞く。「大丈夫」「本当に?」「朝、コーチにも見てもらった。昨日より軽いし、痛みもない。今日は流しとスタート少しだけで終わり」「ならよかった」「悠真」「何」「今ので一個終わりね」「何が」「体調確認」 読まれていた。「もう聞くなってこと?」「聞いてもいいけど、五分ごとに大丈夫って言われると、逆に何か悪い気してくる」「そこまでは聞かない」「ならいい」 陽菜はアイスティーを飲んだあと、少しだけ俺の顔を見る。
第84話 好きだから止めたい。でも、止める権利まではない 前日に読んだ相談カードのことが、翌日になっても頭に残っていた。 恋人が試験勉強で疲れ切っている。見ているのがつらい。だから「もうやめればいい」と言いたくなる。 昨日はかなり整理したつもりだった。頑張ることそのものと、寝不足や食事の乱れは分けて考える。心配していることは具体的に伝える。でも、相手が続けるかやめるかまで先回りして決めない。 理屈としては分かった。 問題は、それが自分のことになると急に難しくなることだった。 翌日の午後、俺は大学の陸上競技場の外側にあるベンチへ座っていた。陽菜に呼ばれたわけではない。図書館へ行く途中、たまたま練習が見える場所を通っただけだ。 少し見てから行こう。 そう思った。 競技場では短距離組がスタート練習をしていた。遠くからでも陽菜は分かる。走り方もそうだが、スタート前に一度だけ肩を回す癖がある。 何本か走る。 止まる。 コーチらしい人と話す。 また走る。 見ているだけなら、特に問題はなさそうだった。 ところが一本終わったあと、陽菜が左のふくらはぎを押さえた。 胸が少し動く。 すぐ離した。 歩いている。 引きずってはいない。 ストレッチをして、またスタート地点へ戻る。「……大丈夫か」 誰にも聞こえないくらい小さく言った。 次の一本。 走る。 普通に見える。 でも、一度気づくと気になる。 走り終わるたびに脚を見る。歩き方を見る。本人が少しでもふくらはぎへ触れると、それだけで不安になる。







